信じれるヤツが一人でもいれば人は救われる

なぜ一神教が流行るのか?俺は思った。

「人は信じれるヤツが一人でもいれば救われる。」のだと。

なぜイエスは救世主・メシアと呼ばれるようになったのか?

やはり彼には皆を愛するアガペーがあった。死ぬ間際も、自分よりも他人をいたわった。たぶんイエスとは相当な苦労人な事がここでわかる。

だから人々はイエスに手を合わせ、祈りを捧げる。人それぞれ戒律があり、過去の罪は消し去れない。でもイエス様に聞いてもらえるだけで、心は和らぐ、安らぐ。
決して、自分の罪は消えないけど、それでもイエスは「私もそうだよ。」微笑みかけてくれるだろうと。

俺は聖徳太子を愛している。それは彼のしてきた偉業よりも彼の誠実さ、信念、真心が感じられるからだ。
でもどっかの人は「聖徳太子はいなかった」という本を出しているが、そういう問題じゃないんだよ。
存在していたかいないかというよりももっと大切なものがあるじゃないか??
この人は物事を科学的に捉えてしまうんだなと思った。そうでなければこんな本は出さない。有名な名前を使ってお金を稼ごうとする魂胆なら、なおさら許されない。

今、科学が発展して物事は現実で捉えがちだ。だが、これが本当に真実かどうかは誰もわからない、いつのまにか騙されているのかもしれない。
そんな事に心奪われ、失ってしまえば人は谷底に突き落とされる。そして自殺者が増えるのだ。


聖徳太子に関連して、俺は法隆寺にある釈迦三尊像に心奪われた。あれには魂・エナジーを感じる。
インスピレーションなのだけれども。鞍作止利が何を思い、これを作ったまでは把握できないが、たしかに彼の魂が宿っている気がしてならなかった。
その時の心臓の高まりは忘れられない。